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【不登校母の過去①】毒親に育てられた私が「自分の人生を生きていない」と気づいたきっかけ

不登校

こんにちは!とらすけです🐯

息子は小4で学校へ行けなくなり、小6まで完全不登校
中1では希望のフリースクールに週1回通学、1年間継続しました。

そして現在中2。
自分の力で勉強をしたいと、フリースクールから新たな道へ切り替え中です。

小学校後半はほぼゼロ勉でしたが、今は自ら勉強をするまでに回復しました。 
 ▼勉強に関する過去記事はコチラ
「【不登校】「勉強の遅れ」はどうする?不登校の子が勉強に取り組むために必要なこと」

息子の不登校体験談を5話まで書いてきましたが、その続きを書く前に、どうしても触れておきたいことがあります。

それは、「私自身が毒親に育てられた過去」についてです。

というのも、息子の不登校がきっかけで、私の中にあった“母から受け継いだ価値観”と向き合わざるを得ない出来事がたくさん起きたからです。

今回は、「親に敷かれたレールを歩かされてきた、私の人生」について書いていきたいと思います。

子どもの人生は誰のもの?

私の母は、プライドが高く、世間に見栄を張りたがる人でした。

そして、自分の理想を「子どもに叶えさせようとする」タイプの親でした。

・自分の思い描いた子ども像に育てたい
・自分の理想のレールに子どもを乗せたい
・自分の満たされなかった夢を子どもに託したい

母の中には、そうした気持ちがあったのだと思います。

もちろん、誰にでも理想はあるし、理想を持つこと自体は悪いことではありません。

自分自身で努力し、それを叶えることは素晴らしいことです。

でも、それを子どもの人生に重ねてしまったら…

それはもう、子どもの人生ではなくなってしまいます

母が直接「こうしなさい」と言わなくても、日々の会話や態度から私は敏感に感じ取っていました。

「お母さんはこうしてほしいんだろうな…」

→「じゃあ、そうしなきゃいけないんだろうな。」

そんな風に、小さな私は自然と“親の望みを汲み取り、理想通りに動く子”

いわゆる“いい子”になっていきました。

親の理想を生きてきた人生

望まなかった進路

私は、ずっと親が望む人生を生きてきました。

でも、そのことに自分では気づいていませんでした。

私は友達と遊ぶことが大好きな子どもでした。

なので中学校は、地元の公立中に進学し、小学校の友達と一緒に過ごしたかったんです。

でもその希望は叶わず、親に勧められるまま中学受験をし、私立の進学校へ。

理由は単純で、私の姉が勉強のできる子で、親が理想とする進路を歩んでいたから。

「姉と同じように進めば、妹も理想的な人生になるはず」

母は「親が考える理想の人生」=「娘の幸せ」と信じて疑いませんでした。

子どもなりに、自分の希望を伝えた記憶もあります。

でも気がつけば、いつも親の希望が優先され、私の気持ちはなかったことにされていました

姉と同じ学校に進学したものの、中高一貫の進学校で「勉強をして当たり前」の環境。

少しでもレベルの高い大学に入るために、勉強ばかりしていました。

そして、自分の将来の夢なんて考える暇もなく月日は過ぎ…

気づけば、「親が勧めてきた職業・学部」=「自分の目標とする大学」になっていました。

大人になっても続く支配

大学は国家資格を取るための専門の学部。

大学に入ってからも国家試験のために勉強勉強。

(一人暮らしで、親の監視から解放されたことが、せめてもの救いでした。自由にサークル活動を楽しめたことは、大学での数少ない楽しい思い出です。)

そしてようやく大学4年生。

「あとは国家試験に受かれば、やっと親からも勉強からも開放される!」

そう思っていたら、次は親から大学院に行くことを求められました。

まだ学生とは言え、もう成人した大人です。

何度も「行きたくない!」と私なりに頑張って伝えました。

でも私の気持ちは聞き入れてもらえず、最終的に私が折れて大学院へ進学。

最後まで、私は“親の思い通りの人生”を歩かされてきたのです。

私は、親に反抗できない「いい子」だったのです。

余談ですが…

大学院時代は本当に面白くない2年間でした。

入ったからには修了までやるしかない。

興味のない研究に追われる日々。

「研究に追われ、何も結果が出ていないまま修論発表当日を迎える」と言う恐ろしい夢を、20年経った今でも見ます…(実際は、実験結果も何とか出て、修論発表も無事乗り越えられたのでご安心を(^_^;))

本当の気持ちに蓋をしてきた子ども時代

小さな頃から押し込めてきた「自分の気ち」

大人になっても、私は親の理想に逆らえずに生きてきました。

けれど、それは突然そうなったのではなく、小さな頃からの積み重ねだったのです。

私は、小さい頃から何か希望を伝えても、最終的にはいつも親の意見が優先され、私の話は「なかったこと」にされてきました。

服選びすら、自分ではできなかった

自分の服を選ぶ時でさえそうでした。

「これがいい!」と自分なりに一生懸命伝えても、最終的には母好みの服を着せられました。

自分の好みとは真逆の服。

いつも悲しい気持ちになったのを覚えています。

習い事も「母の理想」

姉が習っていた楽器に興味を持ち、「ちょっとやってみたい!」と言ったことがありました。

しばらく続けてみたけど、全く面白くなくて…

勇気を出して、「やめたい」と言いました。

でも、それは母がさせたかった習い事。

「その楽器を弾ける娘」が母の自慢だったので、やめさせてくれませんでした。

直接習うことからは解放されたものの、大人になっても、その先生のもとに“形だけ”所属させられていました。

そんな子供時代を過ごすうちに、私は純粋な自分の希望や夢がわからなくなっていきました。

考える暇もなく、気づいたら「親の希望が自分の希望」になっていたのです。

「自分は、親の希望を叶えるために頑張るしかないんだ」

そう思い込んで、いつしか自分の気持ちに蓋をするようになりました。

まとめ

私は長い間、「親の願いを叶えることが、自分の役目」そう思って生きてきました。

「親をがっかりさせるのは悪いこと。」
「自分の希望は言わないほうが良い。」

そうやって自分の気持ちは後回し。

いつしか、“本当の自分の声”がどこにあるのかわからなくなっていました。

でも、息子の不登校がきっかけで立ち止まり、ようやく気づいたのです。

 「私は、自分の人生を生きてこなかったんだ」

この気づきが、息子の気持ちを理解するうえでも、とても大切なきっかけになりました。

次回は、

「毒親の理想の人生を歩かされてきた私が、どのような価値観で子育てをするようになったか」

について、書いていきたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

私の経験談が少しでも誰かの参考になれば嬉しいです。

ではまた!とらすけでした🐯

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