【不登校母】毒親に育てられた私が「自分の人生を生きていない」と気づいたきっかけ

不登校

こんにちは!あおです(^^)

我が家の息子は小4で学校へ行けなくなり、小6まで完全不登校
中1からフリースクールに通い始め、中2になった現在も笑顔でフリースクール継続中。
今は自ら勉強をするまでに回復しました。

息子の不登校体験談を5話まで書いてきましたが、
その続きを書く前に、どうしても触れておきたいことがあります。

それは、「私自身が毒親に育てられた過去」についてです。

というのも、息子の不登校がきっかけで、
私の中にあった“母から受け継いだ価値観”と
向き合わざるを得ない出来事がたくさん起きたからです。

今回は、「親に敷かれたレールを歩かされてきた、私の人生」
について書いていきたいと思います。

子どもの人生は誰のもの?

私の母は、プライドが高く、理想も高い人でした。
そして、自分の理想を「子どもに叶えさせようとする」タイプの親でした。

・自分の思い描いた子ども像に育てたい
・自分の理想のレールに子どもを乗せたい
・自分の満たされなかった夢を子どもに託したい

母の中には、そうした気持ちがあったのだと思います。

もちろん、誰にでも理想はあるし、理想を持つこと自体は悪いことではありません。
自分自身で努力し、それを叶えることは素晴らしいことです。

でも、それを子どもの人生に重ねてしまったら…
それはもう、子どもの人生ではなくなってしまいます

母が直接「こうしなさい」と言わなくても、
日々の会話や態度から私は敏感に感じ取っていました。

「お母さんはこうしてほしいんだろうな…」
→「じゃあ、そうしなきゃいけないんだろうな。」

そんな風に、小さな私は自然と“親の望みを汲み取り、理想通りに動く子”
いわゆる“いい子”になっていきました。

親の理想を生きてきた人生

望まなかった進路

私は、ずっと親が望む人生を生きてきました。
でも、そのことに自分では気づいていませんでした。

私は友達と遊ぶことが大好きな子どもでした。
なので中学校は、地元の公立中に進学し、小学校の友達と一緒に過ごしたかったんです。
でもその希望は叶わず、親に勧められるまま中学受験をし、私立の進学校へ。

理由は単純で、私の姉が勉強のできる子で、親が理想とする進路を歩んでいたから。
「姉と同じように進めば、妹も理想的な人生になるはず」
母は「親が考える理想の人生」=「娘の幸せ」と信じて疑いませんでした。

子どもなりに、自分の希望を伝えた記憶もあります。
でも気がつけば、いつも親の希望が優先され、私の気持ちはなかったことにされていました

姉と同じ学校に進学したものの、中高一貫の進学校で「勉強をして当たり前」の環境。
少しでもレベルの高い大学に入るために、勉強ばかりしていました。

そして、自分の将来の夢なんて考える暇もなく月日は過ぎ…
気づけば、「親が勧めてきた職業・学部」=「自分の目標とする大学」になっていました。

大人になっても続く支配

大学は国家資格を取るための専門の学部。
大学に入ってからも国家試験のために勉強勉強。
(一人暮らしで、親の監視から解放されたことが、せめてもの救いでした。
自由にサークル活動を楽しめたことは、大学での数少ない楽しい思い出です。)

そしてようやく大学4年生。
「あとは国家試験に受かれば、やっと親からも勉強からも開放される!」
そう思っていたら、次は親から大学院に行くことを求められました。

まだ学生とは言え、もう成人した大人です。
何度も「行きたくない!」と私なりに頑張って伝えました。
でも私の気持ちは聞き入れてもらえず、最終的に私が折れて大学院へ進学。

最後まで、私は“親の思い通りの人生”を歩かされてきたのです。
私は、親に反抗できない「いい子」だったのです。

余談ですが…
大学院時代は本当に面白くない2年間でした。
入ったからには修了までやるしかない。
興味のない研究に追われる日々。
「研究に追われ、何も結果が出ていないまま修論発表当日を迎える」と言う恐ろしい夢を、20年経った今でも見ます…
(実際は、実験結果も何とか出て、修論発表も無事乗り越えられたのでご安心を(^_^;))

本当の気持ちに蓋をしてきた子ども時代

小さな頃から押し込めてきた「自分の気ち」

大人になっても、私は親の理想に逆らえずに生きてきました。
けれど、それは突然そうなったのではなく、小さな頃からの積み重ねだったのです。

私は、小さい頃から何か希望を伝えても、
最終的にはいつも親の意見が優先され、
私の話は「なかったこと」にされてきました。

服選びすら、自分ではできなかった

自分の服を選ぶ時でさえそうでした。
「これがいい!」と自分なりに一生懸命選んでも、
最終的には母好みの服を着せられました。
自分の好みとは真逆の服。
いつも悲しい気持ちになったのを覚えています。

習い事も「母の理想」

姉が習っていた楽器に興味を持ち、
「ちょっとやってみたい!」と言ったことがありました。
しばらく続けてみたけど、全く面白くなくて…
勇気を出して、「やめたい」と言いました。
でも、それは母がさせたかった習い事。
「その楽器を弾ける娘」が母の自慢だったので、やめさせてくれませんでした。
直接習うことからは解放されたものの、
大人になっても、その先生のもとに“形だけ”所属させられていました。

そんな子供時代を過ごすうちに、
私は純粋な自分の希望や夢がわからなくなっていきました。
考える暇もなく、気づいたら「親の希望が自分の希望」になっていたのです。

「自分は、親の希望を叶えるために頑張るしかないんだ」
そう思い込んで、いつしか自分の気持ちに蓋をするようになりました。

まとめ

私は長い間、
「親の願いを叶えることが、自分の役目」
そう思って生きてきました。

「親をがっかりさせるのは悪いこと。」
「自分の希望は言わないほうが良い。」

そうやって自分の気持ちは後回し。
いつしか、“本当の自分の声”がどこにあるのかわからなくなっていました。

でも、息子の不登校がきっかけで立ち止まり、ようやく気づいたのです。
  「私は、自分の人生を生きてこなかったんだ」

この気づきが、息子の気持ちを理解するうえでも、とても大切なきっかけになりました。

次回は、
「毒親の理想の人生を歩かされてきた私が、どのような価値観で子育てをするようになったか」
について、書いていきたいと思います。

今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
私の経験談が少しでも誰かの参考になれば嬉しいです。
ではまた!あおでした(^^)

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